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Googleもやるな 

以前(2010/05/11)にここに書いた記事で数独の解答を一発で解くソフトを作った話をしたが、Googleがようやくこのソフトに追いついたらしい。(などと尊大に構えて言えるのは楽しい)

Googleがスマートフォンで数独の問題を撮影して問題を解くソフトを作ったという記事が出ている。是非ご覧になることをお薦めする。

僕が「数独解答ソフト」を作ったときには、せっかくの楽しみを奪ってしまうということで、余り愛着を感じなかったのだが、ソフトを作る人にはやはり「作る楽しみ」があるらしい。
Googleはサンデープログラマーを慫慂している会社なので僕は好きだ。日本にもそんな風土があれば僕も会社を辞めなかったと思うのだが、もう10年以上前の話だし、財閥系であればなおのこと無理な話か。
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[2011/01/14 10:37] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

幻冬舎新書『昭和45年11月25日』 

あの日からもう40年も経ってしまったのかと感慨深い。

当時私は20歳、地方の大学の2年生だった。高校時代から三島由紀夫の本は割と読んでおり、大学の友人に三島気違いがいたお蔭で、彼が蒐集していた大半の著作も読んでいた(当時三島の初版本は高価だった)。直前の11月12日から17日にかけて、池袋の東武百貨店で開かれた「三島由紀夫展」に彼がわざわざ出かけて買ってきた『三島由紀夫展』(本)も見せて貰ったばかりだった。

表題の本は、三島と関係のあるなしを含め100人以上の人物の、事件前日から当日、さらに直後にかけてのそれぞれの行動と感じた(衝撃を受けた・あるいはその後吐露した)記録を拾い出して、ほぼ時系列に並べたものである。

今となっては事件の概要はもとより、ここに登場する多くの人の言動については、知っているところも多く目新しい事実があったわけではないが、本を読み始めると妙な胸騒ぎがして、自分でも神経が昂ぶるのを感じた。まるで様々な登場人物をある事件の一点に呼び込ませるような映画さながらに、淡々と事実を並べる手法がノンフィクションの構成として新鮮だった。

ところで、当日自分はどうしたかをいえば、やはり驚天動地の驚きで呆然としていたに違いない。午後3時頃にキャンパスで件の彼から事件の発生を聞かされても半信半疑で、その後所属していたクラブの部室で歯学部の学生を見つけると、彼と一緒に酒や地方新聞(当時は全国紙の夕刊はその町では発刊してなかった)を買って私の間借り先で一晩中語り明かしている。部屋にはラジオはあったがテレビもなかったので事件の全貌などよくわからないままだった。そして翌日は酷い二日酔いに悩まされた。

今となっては語り明かすことにどのような意味があって、何を話したのか皆目見当がつかないが、その時はそれ以外にすることは思いつかなかったのだ。その後、各地に散らばっていた高校の友人たちに聞いてみるとやはりその夜は似たような行動をとっている。昭和45年当時、大学紛争は下火になっていたが、高校生や浪人や大学生の多くは飽きずにいつ果てるともない議論に熱中していたものだった。
[2010/11/26 16:55] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

『アーロン収容所』『戦場に架ける橋』『猿の惑星』 

会田雄次『アーロン収容所』1962
会田雄次は大正5年生まれで、昭和18年夏教育召集によって京都の歩兵連隊に入隊、同年冬ビルマに送られている。部隊が全滅寸前のところを終戦に助けられ、ラングーンで英軍の捕虜となった。その後昭和22年5月まで1年9ヶ月間の捕虜生活の体験をもとに、『アーロン収容所」をまとめている。

そこに綴られているのは、英国人の有色人種に対する驚くべき優越意識であり、会田に言わせれば英国人(白人)は「恐ろしい怪物」であった。
「この怪物が、ほとんどの全アジア人を、何百年にわたって支配してきた。そして、そのことが全アジア人の全ての不幸の根源になってきたのだ。・・・われわれはそれと同じ道を歩もうとした。敗れた事は天譴であったが、英国はまた勝った(一部要約)」
これは戦争中の言葉ではない。戦後の知識人の言葉である。

一例として、女兵舎での出来事を挙げている。
捕虜が兵舎の掃除に行っても、英人女兵士は捕虜を人間扱いにしない。端的に言えば犬猫並みに扱い、日本人やビルマ・インド人の前で裸でいてもなんら恥ずかしがることもない。荷物を運べという時は、足で物を蹴り、あごをしゃくるだけ。サンキューの一言も無い。
「かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。」

この振る舞いは沼正三の『家畜人ヤプー』(1970)を連想させる。「彼女たちからすれば、植民地人や有色人種はあきらかに『人間』ではないのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような感覚を持つ必要はないのだ。」と会田は断じている。

これと主客が異なった映画が、『戦場に架ける橋』(1957)である。
1943年タイとビルマの国境付近にある捕虜収容所を舞台に、日本軍の捕虜となったイギリス軍兵士らを泰緬鉄道の建設に従事させるが、日本人の英人捕虜に対する苛烈な扱いが主題になっている。これは原作者のフランス人ピエール・ブールが実際に体験した話と言われている。

ピール・ブールはWikipediaによると1936年から1939年までマレー半島でイギリスのゴム園の監督者として働いていた。第二次大戦が始まると仏印でフランス軍に加わっているが、フランスがナチス・ドイツに占領されると自由フランス軍に加わり、後にヴィシー政権に捕らわれ投獄されたとある。してみるとこのとき日本軍の捕虜収容所生活を送ったものと思われる。

三浦朱門は「多くの人は気がついていないようだが、映画『戦場にかける橋』と『猿の惑星』(1968)の原作者は同じ、ピエール・ブールというフランス人である。・・(略)・・彼の作品は彼の戦時中の体験がその中心となっていると見るべきであろう。そこで次のような等式がなりたつ。
『戦場にかける橋』の日本軍対米英軍捕虜イクオール『猿の惑星』の進化した猿対退化した人間。すなわち、日本軍は猿に相当するし、米英軍捕虜は猿に破れて捕らえられた人間、ということになる」(『三浦朱門のコミック談義」1998)

「つまり第二次大戦は白人にとって、殊に、世界に植民地を持っていた白人にとっては、大きなショックであった。英、蘭、仏などは戦勝国とは言いながら、勝利の果実などは何もなかった。戦争によって失ったものはいくらでもあったが、得た物は無きに等しかったのである。」(同)

今更人種差別を持ち出して云々することはタブーともいえるが、戦前の国際情勢、特にアジア・日本のおかれていた状況について、この視点からの評価に目を瞑る必要はないのではないかと思う。自らを「一等国民」といって喜んでいたのは明らかに当時世界を覆っていた人種差別意識の裏返し(劣等感)であったように思われる。
[2010/10/03 20:11] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

ポーランド映画「カティンの森」 

(2007年 122分)

【映画を理解するためのポーランド略史】
ポーランドは地政学的にソ連とドイツに挟まれ、長い間歴史の波に翻弄される運命をたどっている。独立と被占領を繰り返した後、

1918年、第一次大戦後ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、領土を取り上げていたドイツとソビエト連邦から領土が割譲され共和制(第二共和制)のポーランド国家が再生。

1939年、ナチス・ドイツとソヴィエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土は再び両国に分割される。同年ドイツ、スロヴァキア、ソ連がポーランドに侵攻して、リトアニアを加えた四カ国で分割占領され、ポーランド亡命政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移すことになる。

1945年、第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、その国の形は終戦前に行われた英・米・ソのヤルタ会談によって定められた。その結果、領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。以後、ポーランドはソ連の影響下に置かれ、ワルシャワ条約機構に組み込まれた。

1980年、独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、1989年完全な民主化、亡命政権を継承する形で第三共和制が成立した。ワレサは第二代大統領。

【カティンの森事件】
カティンの森事件は1940年、将兵を含むポーランド軍人や民間人捕虜をソ連領に連行し、カティンの森で次々と後頭部より銃殺した事件を指し、数千人の遺体が確認されているが、20000人以上が犠牲になったという文書もある。

事件の報告は単純ではなく、当初ソ連が連行して「埋葬」した場所を、後にドイツがソ連を追って侵攻したときに発見し、ドイツはソ連の悪逆ぶりをポーランドや海外に向けて発表し、宣伝した。
これに対し、ソ連はドイツの仕業と切り返し、その後同地をソ連が再占領するに及んで1943年夏にドイツが実行したという「歴史」をポーランド人にも同盟国にも広く浸透させてきた。ソ連政府が自分たちの行為であることを認めたのは1990年ゴルバチョフによってである。

【映画】
映画は、殺害された将校の家族たちの物語として展開する。始めドイツの宣伝に使われ、後にソ連軍・傀儡政府により1943年、すなわちドイツ軍による虐殺と言うことを強制され、多くの関係者は真実を知りながら口を閉ざす。

中には真実を様々な形で表現するべく抵抗する者も現れるが、映画では悲惨な結末が描かれる。

日本でも、シベリア抑留中の真実が長い間封殺されていたり、「征戦」を信じて戦ってきた兵士達が、器用に頭を切り換えられず「特攻崩れ」などと自棄を起こす場面が映画になったりしたこともあるが、どこの国においても敗戦や外国の占領にさらされた国の惨めさという意味では同工である。占領軍の歓心を得るために、迎合する輩というのはどこにでもいるものだ。

[2010/06/08 15:03] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)

梅棹忠夫著『知的生産の技術』 

『知的生産の技術』が発表されたのは1969年、大学紛争の最盛期で、70年大阪万博・安保改訂の前年だ。私はこの年大学に入った。

この本は「知的生産」という言葉が新鮮だったことから、知識人や学生・研究者の間で人気を博し、長い間ベストセラーになっていた。ふとしたきっかけで再読してみたが、この間の「知的環境」の余りの違いに「三嘆久しうす」という心境になった。

この本が書かれた当時は勿論パソコンなどない。電子辞書どころか、ワープロも電卓もない。辺見の計算尺が3000円、大学卒の初任給が5万円という時代だ。

梅棹が発見したのは「情報をカードに」という情報の整理法。その後「京大式カード」として一世を風靡するが、やっていたことは、一つの「発見」について一つのカードを作り、キーワードやコメントなどをコツコツと手書きすることだ。

そういうカード(B6判)を何千枚も作り、あとでカテゴリーやキーワードなどで分類整理するという、現代のわれわれにはパソコンなしでは考えにくい作業だが、つい昨日まで多くの研究者が労を惜しまず、当たり前のようにやっていたことだ。

カードの付け方については筆者がこう書いている。

「カードはわすれるためにつけるものである。このことは、カードのかきかたに重大な関係をもっている。カードにかいてしまったら、安心してわすれていいのである。」

「カードは、他人がよんでもわかるように、しっかりと、完全な文章でかくのである。」

「かならず『みだし』をつける。カードの上欄にそれをかいておけば、検索に便利である。」

「カード操作のなかでいちばん重要なことは、くみかえ操作である。知識と知識とを、いろいろにくみかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだにおもいもかけぬ関連が存在することに気がつくのである。」

これ以上の深入りはやめるが、現在の学生なら、仮にある論点に関する書籍や関連論文を探索するのにアマゾンやグーグルなどを使えば、データだけなら100や200件を作成するのに1週間もかからないだろう。

しかし、これをただプリントしてファイルしたのでは梅棹を超えることはできない。自画自賛ではあるが、Eharanoteは「現代の京大式カード」だ。上に述べたことは当然できる。それ以上のこともできる。何よりデータの全文検索は強力な機能だ。場合によっては瞬時といってもいい時間で。カードという大きさに制約されない。場所もとらない。当たり前だがすべてパソコンの中だ。プリントも必要ない。

ブラウザでみたままを、そのままデータベースとして保存できるツールでは、Evernote以外広く商品化されたものはない。Eharanoteはその後塵を拝してはいるが、思い入れもあって私はたいそう気に入っている。ただ、Win版では制約があってMac版ほどの良さ(機能)が発揮できていないのは残念だ。(最近わかった)

ともあれ、データを貯蔵するツールは作った。問題はこれを活用する方法論だ。
[2010/05/22 22:54] 未分類 | トラックバック(-) | コメント(-)
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