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太平洋ひとりぼっち 

 堀江謙一さんがマーメイド号という6メートルに足りない小さなヨットで太平洋を単独横断してサンフランシスコに着いたのは1962年のことで、その時堀江さんは26歳だった。当時僕は12歳、中学1年の年だが、何月のことだか調べ足りないのであるいは小学校6年生だったかも知れない。

 その時の新聞の記事はおぼろげながら覚えている。

 Wikipediaによると、「1962年、マーメイド号による西宮-サンフランシスコ間の太平洋単独航海に成功。当時はヨットによる出国が認められなかったため、密出国であった。日本では当初この点について非難が殺到し、犯罪者扱いすらされたが、堀江の偉業が認知されるにつれてその声は小さくなった。なお当時のサンフランシスコ市長には「コロンブスもパスポートは省略した」と、名誉市民として受け入れられている。」

 実際新聞の第1報は英雄ではなく密出国者、すなわち犯罪人扱い。この2年後は東京オリンピックの年であるが、当時海外に旅行することは限られた職業の人間に与えられた特権であり、庶民の海外旅行など夢のまた夢という時代。それにドルは360円もしていた。このレートでは現代でも海外に行く人間は1割以下に落ちるだろう。余談はともかく、このころは敗戦以来日本人が小さな島に押し込められていた状況で、新聞社にも海外雄飛の業績を讃えるよりは、「No passport, No English, No money」の堀江さんを、アメリカ人に嗤われる日本人が出てきたという内向きな見方しかできない人間が多かったのだろう。

 数年前にラジオの講演会で堀江さんの話を聞いたが、サンフランシスコ湾に入って、目印か挨拶の旗(海の規則らしい、あるいは日章旗かも知れない)を立てて湾奥部に進んでいたら、大きなクルーザーから「おまえは日本から来たのか」と聞かれ、そうだと答えると、次々とたくさんのヨットが集まって港までパレードの如く歓迎してくれたということだ。すぐさま新聞社が駆けつけ、市長の歓迎会もあってその日の内に英雄になっていたらしい。さながらリンドバークだ。

 日本では3日目あたりから新聞の論調が変わってきたが、犯罪者扱いをした手前歯切れが悪かったように思う。日本では自由に行動する人間を、世間や新聞社は白い目で見るものだという実例を僕はこの時に知った。はは~ん、新聞も世間もアメリカの言論で動かされるのだな。

 もしも、日本が自由に寛大であったり、冒険心を慫慂するような社会だったら、面白い人間がたくさん生まれていたのではないだろうか。学校での成績がいい人間ほど冒険心(自由への希求)が少ないように思われる。
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[2008/10/23 01:03] 未分類 | TB(0) | CM(0)

危機一髪(水攻めの巻) 

 前回の三菱重工爆破事件(昭和49年8月30日)の翌日土曜日は会社が休みで天気は雨だった。僕は狛江市にあった会社の独身寮のロビーでテレビを見ていた。テレビには丸の内中通りで証拠集めのために機動隊を動員している姿が映し出されている。この時点ではぼんやりと爆破事件らしいということしか分からなかった。

 夕方、近所が騒がしくなってきた。消防自動車のサイレンが近くで鳴り響いている。多摩川沿いの住宅に異変が起きたらしい。僕の居た独身寮は多摩川の土手から40メートルくらいしか離れていないところに建っていた。

 東京の雨量はたいしたことはなかったが、上流で降った雨が1~2日遅れでこの付近まで達し水嵩を増していた。農業用水のための取水堰が水の流れを妨げ、濁流が狛江側の土手を削り、土手の崩壊が徐々に始まった。消防団は蛇篭を積み上げ崩壊を食い止めようとしたが、水の力にはとうてい及ばない。土手が崩れると次いで住宅の土地も削られ、サーチライトに照らされた中、住宅が傾いて次々と多摩川に流されていった。たくさんのカメラのフラッシュが光り、住宅の原形をとどめたまま二階建ての家が流れていくのを日本中の人がテレビで見ていた。

 付近は避難命令が出され、夜になって僕たちは近くの小学校に非難することになった。避難風景がテレビで放映されたらしく、夜半に人事担当者が飛んできて憮然としてみっともないと言った。若い者(僕らのことだ!)が何十人も避難しているところがテレビに映ったらしい。

 翌日の9月1日は日曜日で快晴だったが、水量はあまり下がらない。午前中も住宅が流されたようだった。政府は自衛隊に要請して取水堰の爆破を試みることになった。ヘリコプターで取水堰にダイナマイトを仕掛けて、周辺の立ち入りを禁止しお昼頃爆発させたが、表面を少しだけ削っておしまいという情けない結果だった。この水害では全部で19棟の住宅が流された。流された家以外は殆ど被害がないという極めて局所的な「大水害」だった。

 後にこの事件は山田太一により八千草薫と竹脇無我が不倫するテレビドラマ「岸辺のアルバム」の舞台に使われた。当時水害と不倫の組み合わせは僕にはとても思い至らない、家の崩壊と家族の崩壊のアナロジーと言うことらしい。
[2008/10/21 13:37] 未分類 | TB(0) | CM(0)

危機一髪 

 その日は入社2年目、同期の友人が本社に転勤してきたので数人と日比谷でお昼を一緒にした帰り。丸の内の中通りから、重工ビル(当時)の入り口を入り、南北に繋がる連絡通路から三菱本館(当時)のエレベーターホールを曲がり、2階のフロアーに行く階段室に足を踏み入れた。

 時は昭和49年(1974年)8月30日金曜日、午後0時45分。突然ズドーンと爆音と振動が起こった。直ぐに引き返してみると重工ビルの入り口付近がもうもうと白煙を上げて、何人かが倒れている。これが左翼のテロによる連続爆破事件の始まりだった。たった今通り過ぎた入り口にペール缶の爆発物が置かれていたのだ。30秒の時間差で危うく命拾いをしたことになる。この時の死者は8人で僕の会社の社員も亡くなった。
 世に言う「三菱重工爆破事件」。僕が119番の第1通報者だとあとで聞かされた。

 もしも、この時僕の命が途絶えてしまったら。
 世界は変わっていただろうか。変わったとも言えるし、変わらなかったとも言える。確実に変わったと言えることは僕のDNAの継承者は絶対にこの世には現れなかったということだ。

 歴史は些事から成り立っている。僕がいなくても世の中は変わりなく動いてきただろう。僕のいない世界でもバブルははじけ、阪神大震災は起こり、イラク侵攻はあっただろう。しかし、僕がこれまで座った飛行機や新幹線の座席には誰が代わりに座ったのだろうか。僕と入れ違いにシートに座った人には何かとんでもないことが起こるのではないか。

 考えると面白い。結局この僕でも何らかの打撃を歴史に与えているのだと思う。ちっぽけな存在でも生きるということは歴史にひっかき傷くらいは付けているのだ。
[2008/10/05 21:12] 未分類 | TB(0) | CM(0)

立花ゼミ初参加 

はじめまして、
おろおろしながらこのブログを始めることになりました。

ここはどこ? 僕は誰? 
これは立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科立花ゼミとリンクしたブログです。

立花先生が1940年生まれ、僕は1950年生まれ。共通項はどちらも20世紀前半の生まれ。今は21世紀前半だから、世界史と半世紀以上を共有してきたことになる。

これまで様々な事件があった。世界的にも、自分自身にも。
自分の身近ですれ違った「事件」を思い出しながら、来し方に思いを馳せようかという試み。これならネタには困らないだろうという下心。

すれ違いは地球上に起こったことなら何でも、家系をたどって3代前の先祖の時代に起きたことまで含めれば、何でもありということだ。もちろん現代、たった今の事件まで。

そこで「もしも...だったら」どうなったんだろうね。タイムマシンのパラドックスかな。


[2008/10/02 17:20] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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