スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[--/--/-- --:--] スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

イチローの右足 

 11月22日、立教大学連続公開シンポジウム「未来の声を聞こう」で、今最も忙しい人茂木健一郎さんの講演を聴いてきた。

 開口一番話があったのは、「未来は分からない」という当たり前のことであったが、その中で、朝家を出るときに右足から踏み出すか、左足から踏み出すかでその人の今日一日の行動(あるいは運命)が変わるということだった。まるで昔読んだ広瀬正や星新一のSFみたいな話だ。

 時間を遡ってやり直すことなど誰にもできないので、この現象の証明はそれこそ「絶対に」できないのだが、この理論には妙に説得力がある。この理論の「信奉者」であるイチローは常にベンチからグランドに踏み出す足は右足と決めているということだ。これは茂木さんがイチローから直に聞いた話で、超一流の人間には人事(トレーニング)を尽くした後のまさに頂門の一針なのだろう。凡人には「験を担ぐ」だけにしか見えないが。

 また、人が判断する時間はわずか2秒だという茂木さんの話もあった。コンビニからどの銘柄のビールを選ぶかは2秒で決断するし、人生の岐路にあたっても最終決断は実際には2秒ですませているという話だ。すると「もしもあの時・・・」の悔いはたった2秒で決断したことによるのか。

 「もしもあの時」とは、他者から与えられた運命が「もしこうだったら・・」と考えがちなのだが、もしも(自分が)右足から踏み出していたら、他人の、ひいては世界の運命を「少しだけ」自分でも変えることができるのかも知れない。だとしたら、ちっぽけな自分も世界の運命を「左右」しているのだろうか。それとも世界は既に予定された出来事を単に消化しているだけという運命論に従うべきなのだろうか。
スポンサーサイト

[2008/11/24 14:06] 未分類 | TB(0) | CM(0)

キューバ危機 

 今では忘れ去られたように事件だが、僕には世界の行方というもの、というより全面戦争による世界の終わりを生涯で初めて身近に感じた一瞬であり、このような経験は後にも先にもない。

 事件を知ったのは1962年10月22日、ケネディがテレビ演説でキューバにソ連のミサイルが持ち込まれていることを発表した時だ。僕は中学1年生。9月に九州から東京の公立中学に転校したばかりのことだった。
 朝学校に行くとクラス中がその話題で持ちきりで、今にも核戦争が始まらんばかりの悲壮感が漂っていた。新聞やテレビの影響が大きかったのだ。

 事件のあらましはこうだ。
 10月14日アメリカ空軍のU-2偵察機がアメリカ本土を射程内とするソ連製中距離弾道ミサイル の存在を発見した。
 U-2 偵察機というのは真っ黒く翼の長い偵察機で、当時の戦闘機では迎撃できない、上空25000mもの高々度成層圏を飛行し共産圏のミサイル基地などを偵察していた飛行機である。なお、この偵察機は1960年5月1日にソ連領空を飛んでいたとき、ソ連が開発に成功した地対空ミサイルによって撃ち落とされたことがある。この時も世界は大騒ぎしたものだ。

 ともかくアメリカは、キューバ国内にあるミサイルの撤去を求め、グロムイコ駐米大使を呼んで通告を行っている。これが10月18日。同時にソ連との全面戦争に備えアメリカ国内の核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置き、ソ連も国内のミサイルやキューバのミサイルが発射準備に入った。同時にアメリカはキューバ海域を封鎖し、新たなミサイルの上陸を阻止する。

 折しも、キューバに向かうミサイルを積んだソ連の貨物船が発見され、一触即発の危機は一層全世界の新聞を賑わせた。
 世界が固唾を呑んで見守る中、10月28日フルシチョフはモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表し、貨物船を引き返させることになった。後に報じられたテレビでは貨物船がUターンをして引き返す映像が流れ、世界中で安堵と喝采を浴びた。僕にはこの映像が鮮明に記憶に残る。この危機を境に世界はデタントに向かうことになった。

 この間の出来事を映画にしたのが『13デイズ』で、コビン・ケスナーが主演している。まだ見ていないが。
 また、この2年後にフルシチョフは失脚することになるが、彼はキューバ危機におけるアメリカへの弱腰が非難されたという。

 この時ほど、核のボタンに手が近づいたときはないかも知れない。もしもボタンが押されていたら、米ソの大都市やキューバは完全に破壊され、他の国も戦禍を免れなかっただろうし、今の世界は気候の狂いと大気汚染による病気や飢えと経済の疲弊で地獄の有様になっていた可能性すらある。あれからもうじき半世紀が経とうとしている。思い返すと感慨深い。
[2008/11/18 11:43] 未分類 | TB(0) | CM(0)

ケネディ暗殺 

 ケネディ大統領がダラスで暗殺されたのは1963年11月22日(現地時間)だった。このニュースは当時の小学生以上だったら皆鮮明に覚えていることだろう。僕は13歳、中学2年生だった。

 この日は翌年のオリンピックを控え、日米間でテレビによる宇宙中継の実験初日という記念すべき日でもあった。人工衛星を使って電波を中継する仕組みは現在と同じであるが、当時は静止衛星がまだなく、周回している衛星が電波を中継できるところにうまく入った間の20分程度だけ中継が可能となり、次に中継可能となるまで3時間ほどかかるような状態であった。この日の宇宙中継の予告は以前より宣伝されており、僕はこの日を楽しみにしていたのである。

 今調べてみると、第1回目の中継は午前5時27分から20分間、2回目は午前8時58分から17分間行われている。当日は勤労感謝の日だったので1回目の中継も2回目の中継も見ている。

 1回目は砂漠の風景が映し出されるだけのつまらない内容だったと思うが、2回目の中継になって画面全体に現れたのは、手で紙に書いた、うろ覚えながら「ケネディ大統領が暗殺されました」というタイトルだった。始めこれを見たときはしばらくは何のことか分からなかった。最初は音声もなかったように思う。次いで、「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。その電波にのせてこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います」と急遽放送することになった、正規のアナウンサーでない毎日放送ニューヨーク特派員前田氏の声が流れてきた。

 その日から連日新聞やテレビはケネディ暗殺の記事でいっぱいであったが、事件の2日後の11月24日に犯人と目されていたオズワルドが移送中に新聞やテレビの記者の前で射殺されるにおよび、事件の興奮は最高潮に達した。今思うと同時多発テロと比べてもこの時の衝撃は優るとも劣らない。自分が歴史的瞬間に立ち会っているという実感を感じた初めての瞬間だった。

 一つの銃弾によって宇宙中継で放送されることになっていたケネディのスピーチを始め、すべての予定が狂ってしまった。もしもこの銃弾がなかったら世界は確実に違う方向に進んでいたことだろう。
[2008/11/10 00:51] 未分類 | TB(0) | CM(0)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。