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一本足鳥居 

戦争遺跡のついでに、私にとって身近な遺跡をここに書いておくことにする。

長崎市にある山王神社は原爆の爆心地からわずか800メートルのところにあり、公道である階段を上がりきったところに建つ二の鳥居が、原爆の炸裂によって右半分だけ残っている「一本足鳥居」として有名である。
一本足鳥居


身近と書いたのは私の祖父がかってこの神社の宮司であったからである。祖父は昭和8年に亡くなっていて、私の父を含む3人の息子も神主という職を嫌がったのか誰も跡を継がなかったので、その後は縁者でない方が跡を継ぐことになった。極めて僥倖なことに宮司となったそのご一家は原爆の時に防空壕に入っていて、近隣の方たちがことごとく亡くなった地域にあって一家全員無事に生き延びることができたという。

私が初めてこの鳥居を見たのは、大学浪人時代の昭和43年夏、友人と長崎旅行に行ったときだった。父から話には聞いていたが、階段下から見上げるその異様な姿に全身の血が沸騰するような感じがしたことを覚えている。

倒壊を免れた右足の花崗岩も爆心地側は石の肌が焼けただれ、寄進者の名前を判別することはできない。岩肌の違いはあれから60年以上の風雪を経た今でも明らかにわかる。また倒壊した左足や梁の部材も倒れたときのままで、一寸たりとも動かされてはいない状況だった。それらはたった昨日倒れたばかりという趣で無造作に放置されていた。
TS270169.jpg

当時は事情を説明した案内板などはなく、平和運動家も気にしていなかったのだろう。一昨年現在の宮司さんに伺ったことには、(多分昭和40年代のことと思われるが)市役所の役人から公道に倒れている鳥居の足などを撤去するようにと通告されたが、150万円もかかる撤去費用が捻出できなかったのでそのままにしておいたということであった。現在は市の費用で(愚かなことに)道の片隅に整理されて各部材の説明版が設置されているが、手元にある平成7年の朝日新聞の写真でもまだ倒れたままの状態にあったようだ。この移動・片付けはまことに惜しいことだ。
案内板
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[2009/01/13 00:57] 未分類 | TB(0) | CM(0)

戦争遺跡 

2009年1月11日、立花先生はじめ我が立花ゼミの大学院生、セカンドステージの学生、学部の学生、東大の学生など19名は、東京都八王子高尾にある「浅川地下壕遺跡」の見学に行き、同遺跡保存会の会長をなさっている十菱先生と事務局長の日高さんのご案内で、地下壕の見学エリアを一通り見学させていただいた。

「浅川地下壕」は戦争末期に陸軍によって掘られ、空襲を予期した中島飛行機の航空機エンジン製造の工場として使われたところである。この地下壕は3カ所の山の中に掘られているが、今回はそのうち、イ地区と呼ばれるほぼ完成し工場が稼働した壕と、ハ地区と呼ばれる完成に至らなかった壕を見学することができた。

壕の中は大体幅4メートル、高さ3メートルを標準に掘られているが、全域にわたってダイナマイトで崩れた岩盤をつるはしとスコップで整備しただけであり、ごつごつした岩肌とでこぼこ道が続く足場の悪い「坑道」そのものである。
坑内

坑内は1年中気温が15度前後、湿度80~90%という気候条件で、工場が稼働してもすぐに錆が発生するような状況であり、精密機械であるエンジンの製造にはふさわしくない。このような場所でも工場として甘受せざるを得ない当時の技術者の置かれた立場には深く同情してしまう。多くの人は時代の奔流の中で個人の思考を特定の方向に向けざるを得ず、自由な行動が許されない中でひたすら「事態の打開」を受動的に待ち受けるばかりであっただろう。

この時代ばかりではない、常に時代におもねる調子者がいて、権力を背景に個人の自由と尊厳を制約し、懐疑を抱くものを罵倒する。権力は軍や政治家や役人だけにあるのではない。言論人にも隣組にも婦人会にもマスコミにも存在する。いや誰もが事大主義的な「闇」を多かれ少なかれ持っている。この自覚なくして平和を唱えるだけでは烏合の衆と変わらない。

それにしても、浅川地下壕に関係した人達はその虚しさを自覚していただろうだけに、無駄な戦いに参加した切なさを戦後も味わったことだろう。
[2009/01/13 00:32] 未分類 | TB(0) | CM(0)
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